映画「駆込み女と駆け込み男」に感化され、思いつきで東慶寺に足を運びました。
東慶寺は、花の寺とも呼ばれるほど、多種多様な花が咲くそうですが、僕が訪れたのは3月中頃。ウメは咲いていましたが全体にまだ冬を脱しきれていない感じでした。
今頃はかなり春めいているでしょうね。
茅葺き屋根の山門
渋くちんまりとたたずむ山門で「おー、ここにみんな身につけているものを投げ込んで駆け込んだのかなー」なんて思いながら門をくぐったんですが、江戸時代は実は中門で、鎌倉街道沿いに大門があったそうです。
やっぱりね。松岡御所とも呼ばれた寺の門にしては小さいと思いました。
鐘楼
山門をくぐると、左側にこれまた渋い茅葺き屋根の鐘楼があります。この鐘楼は、関東大震災で「唯一」倒れなかったと言われています。
唯一というのはたぶん東慶寺境内で、ということだとおもいますが。。。
梁には、地震で揺れた際に梵鐘が食い込んだ跡があるらしいけど、見逃しました。
茶室寒雲亭と茶室への門
渋いですねぇ。この苔も、梅雨時期なら青々としてきれいだろうな。
いまはすこし錆色。
本堂
現在の本堂は、関東大震災で消失したあとの昭和に建てられたものだそうです。かつての本堂は、徳川家康の孫の千姫が寄進したもので、いまは三渓園に移設されているとのこと。
本堂内左に、豊臣秀頼の娘の天秀尼(千姫の養女として東慶寺に入り、20世住持となった)の像があります。天秀尼は、大阪城落城の際、千姫の養女として出家することを条件に命を救われたそうです。
やっぱり、御所寺というだけあって、時の有名人のなまえがいろいろでてきますね。
権現様のお声掛かり
「駆け込み女と駆出し男」で、信次郎こと大泉洋が東慶寺のことを「権現様のお声掛かり」という口上がありましたが、これは、天秀尼が入山する際、家康になにか願いはあるかと問われたときに「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答えたことが所以だそうです。
江戸時代、全国でここと群馬の満徳寺の2寺だけが縁切り寺と認められている格式ですかね。
縁切りの実際のところ
映画「駆込み女と駆出し男」と時代考証 - 黒シュナ・エマの日記でも書きましたし、現代の通説でも、夫がどんな無頼者だとしても女性から離縁できない、と言われていますが、それは離縁状を書くのが、夫方だからだそうです。
実際のところ江戸時代では家や格式が問われるのは上流の武家ぐらいで、下流武士や町人などは男女ともに働かなければ暮らして行けず、コミュ力の強い女性のほうが立場がつよいケースが多かったみたい。
離縁状は、いわば離縁後の通行手形、これがないとどこへも行けないのには違いないわけで、女性は離縁状を書いてもらうためにあの手この手を使ったようです。
その一つが、寺社仏閣への入山や武家屋敷への奉公。自分より格式の高いところへおいそれとは旦那は妻を連れ戻しに入れないわけで、足掛け三年一緒に暮らさなければ別れたも同じという時効を、ねらって駆け込んだようです。
ですが、そんなことが横行すると法の統治もままならないわけで、そこかしこに駆け込むな、駆け込むのは縁切り寺だけ、ということにしたのも、全国に2寺だけに認められているような気がします。実際に「そんじょそこらへの駆け込みは許さん」というお達しは出ていたようです。
そんな東慶寺への駆け込み事例ですが、駆け込み女が夫の不義をさんざんぶちまけた際、夫は反論として、事の次第を奉行所で明らかにします。結果、駆込み女の内通などが明らかになり逆に裁かれたというお話がありました(東慶寺資料)。これはあの遠山の金さんこと遠山左衛門尉のお裁きだとか。
どの時代も女性は強いんだなぁ。。。
白蓮舎(立礼茶室)前の菖蒲畑
面積は小さいのですが、のどかな風景です。
映画で、じょごが薬草畑を作ってましたがこんな雰囲気だったのかも。
それとも映画の制作側がこの風景を見て、そんな演出を思いついたんですかね。
裏山は有名人の墓所
裏山に行くと、最初に目につくのは、南北朝時代の後醍醐天皇の皇女用堂尼の墓標。
お墓を写真に取るのはあまり気のいい感じじゃないのでとりませんでしたが、すこし立派な、でも至って普通のお墓がいっぱいありました。
ここでもやはり苔がひときわ目につきます。
が苔に関してはカンペキ時期を誤った感じ。またいつか時期のいいときに行くことにしよう。