黒シュナ・エマの日記

2014年3月31日生まれの黒ミニチュアシュナウザーエマとその家族の日記です

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ニシンの話

100年ぶり「群来」、ニシンで海が白濁…江差

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数日前「100年ぶり」というスペクタクルな期間と、「群来」と読み方がわからないヘッドラインに惹かれて読んだニュースだったのですが、つづけて偶然旅先の雑誌でニシン御殿についての記事を読みました。

僕もかつて、小樽のニシン御殿に行ったことがあったのですが、どこかモノ寂しげな番屋だなぁという記憶しかなくて、気になったので調べてみました。

 「群来」とは

ニシンの産卵は、メスは海藻などに卵を産み付けオスが放精して受精させます。北海道西側沿岸で、大量にニシンが回ってきて産卵が始まると、海面が乳白色に色づき、それを群来(くき)と呼ぶんだそうです。

ニシンは別名春告魚。かつて北海道西側沿岸は、この時期波雲が銀色になるほどニシンが大量に押し寄ていたといわれています。

江戸時代、コメが取れなかった松前藩は、ニシンの漁獲高を石で表していました。

1897年にピークの97万5千トンを記録したそうですが、石高でいうと130万石。100万石で大大名ですから、すごさが伺えます。

ニシンは魚にあらず

ニシンは、漢字で鰊と書きますが、鯡とも書きます。

それぞれ元は鰊(こざかな)、鯡(フナに似た魚)の意味なのですが、当時松前の人々は、「ニシンは魚に非(あら)ず、松前の米成(こめなり)。故に魚編に非と書いてニシンという。」といっていたそうです。いっとき北海道の漁獲高の7割がニシンだったといわれたそうですし、後述しますが莫大な財をもたらしたニシンならでは、の呼ばれ方です。

いま小学校の創作ダンスで有名な「ソーラン節」は元は北海道の民謡で、当時のニシン漁の様子を唄った『沖上げ音頭』です。獲れたニシンをタモですくい汲み船に積み替える時に唄われていたんだそうです。

もう一つ、ニシンの卵は「数の子」といいますが、もともとニシンはアイヌで「カド」といわれていたそうです。なので「カドの子」が語源だそうで。

そんなニシン漁も、昭和33年に2400トンを最後に激減し、いまでは幻の魚といわれているんだとか。

理由は想像どおりの乱獲や、はたまた海水温度の変化、地形変化など言われているようですが解明されていないようです。

ニシン御殿とは

北海道日本海側に押し寄せたニシンは、「一網千両、万両」といわれるほど莫大な利益をもたらしました。ニシン御殿の走りは、もともと東北地方からニシンが取れる2~3ヶ月の間に出稼ぎに来る若い衆を寝泊まりさせる番屋でしたが、財を成した網元が居住スペースを併設するようになり、豪華絢爛になっていたのが、ニシン御殿です。

そのなかでも有名なのが、小樽市祝津にある旧青山政吉邸。

登録有形文化財になっている島崎柳鴻の水墨画「八仙人」が13枚の襖に描かれた「八仙人の間」が見どころの1つです。

建築費は当時の金額で31万円。同時期、新宿に建てられた有名デパートの建築費が51万円というから、驚きです。さらにこれは、娘の政恵と民治夫妻の接客用の別荘としてたてたとか。すごいな...。

小樽市ニシン御殿

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小樽市 鰊御殿(にしん ごてん) | おたる水族館

僕が訪れたニシン御殿はここ。

 

元オーナーの田中重松さんは、やはり東北青森から17歳のころ叔父を頼って北海道に渡ってきました。そしてまさにニシンドリームを掴み、御殿を築いたんだそうです。

いまでは手に入らない木材、民家では使われない伽藍調の大屋根などその筋の人ならドキドキしそうな建築様式ですが、その辺あまり明るくない僕にとって、豪華絢爛というより、どこか時代から忘れられたようなひっそりとした佇まいでした(すみません)。

建物は大きかったですけどね。

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今は昔、という言葉がしっくり来る御殿でした。

この話を知ってからいくと、また違ったものが見れるんでしょうね...。また行きたいな。

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