黒シュナ・エマの日記

2014年3月31日生まれの黒ミニチュアシュナウザーエマとその家族の日記です

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甲州大善寺 ブドウ寺

山梨旅行のとき、寄り道を、ということで甲州勝沼大善寺に立ち寄ってきました。このお寺、いまでは逃げ恥聖地のほうで有名かもしれませんが、とっても歴史的なお寺なんです。

 

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縁起

養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。

行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。

縁起 - ぶどう寺 大善寺

 

 行基とは、日本で最初の最高位である大僧正となり、聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として任命されたお人です。

 行基は、この地の人たちにぶどうの栽培を教えたことでぶどうが広まり、甲州葡萄のはじまりといわれているそうです。

 

文化財

 ここ大善寺には、国宝や重要文化財が所狭しと並んでいます。

 堂内は撮影禁止なので写真とれなかったのが残念ですが、数百年前の仏像が並んでいてとても荘厳でした。

本堂(薬師堂)

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 国宝。鎌倉時代の本格的密教仏堂だそうです。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、世界に類を見ない日本古来の伝統芸法です。

薬師如来及両脇侍像(国指定重要文化財

 秘仏で一般公開されていません。ざんねん。次回開帳は平成30年10月1日~14日。

 通常薬師如来の持物(じもつ)は、薬壺(やっこ)とされており、左手は丸みを帯びているのですが、大善寺薬師如来は前述の通り、ブドウを持っていたという伝承どおり、手のひらが平たく上を向いているのが特徴です。

 なお写真にある秘仏薬師如来像持物のぶどうは、平成に復元されたものらしい。

木造十二神将立像(国指定重要文化財

 干支の宝冠をつけた特徴のある仏像です。これまた超メジャー級 大仏師・蓮慶(れんけい)による造仏だそうで。鎌倉時代作。

木造日光・月光菩薩立像(国指定重要文化財

 秘仏木造薬師如来及び両脇侍像の日光・月光菩薩とは別に、常時拝観できる日光・月光菩薩立像です。

 日光・月光菩薩は、薬師如来の両脇侍なので、別の薬師如来像があった模様。消失した仏像があるという伝承もあるようです。

木造役行者倚像(県指定重要文化財

 修験道の祖とされる役行者像。像の部位をさすれば、自分の悪いところが治るらしいです。

武田勝頼大善寺

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 彼の武田信玄の子、勝頼は1582年(天正10年)、織田・徳川・北条連合による領内侵攻(甲州征伐)により崩壊した武田軍の再起を図るため、3月3日新府城に自ら火を放ち、岩殿城へ逃れようとしますが、3月9日家臣の小山田の謀反にあい、岩殿城行きを諦め天目山を目指します。

 そして運命の3月11日、天目山の戦いで勝頼は子の信勝とともに自害。この日清和源氏新羅三郎義光以来500年続いた甲斐武田氏は滅亡します。

 このあたりのお話は、NHK大河ドラマ真田丸でも出てましたね。意識してなかったので大善寺がどういう風に表現されてたかまったく記憶にありませんけど...。

 上記逃避行の間に、大善寺に立ち寄り一夜を過ごしたそうで、その一部始終を理慶尼が記した武田滅亡記(理慶尼記)は、いまでも大善寺にあります。

 直前の長篠の戦いで1万からの動員を誇った武田軍はこのとき数十人程度。理慶尼記には、裏切りに次ぐ裏切りから疲弊しながらも、勝頼や家族・家臣の思いやりや決心(最期)などが克明に綴られています。

 たぶん太陰暦なので今の暦とは違うのでしょうが、偶然訪れたこの僅差の日付、なんとなく運命を感じてしまいますな。。。

最後に

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甲府盆地は霧の中。